不滅の恋人コラム。
第6回は「イ・ガンのモデル首陽大君は王宮外で育った?」です。
不滅の恋人(原題:大君・テグン-愛を描く:テグン-サランウル クリダ:대군 – 사랑을 그리다)特集ページ
不滅の恋人コラム6 イ・ガンのモデル首陽大君は王宮外で育った?
イ・ガンのモデルとなった首陽大君(スヤンテグン:수양대군)。
ドラマ内では少年になるまで王宮外で暮らしていましたね。
世子(セジャ:세자)の強力なライバルになり得る大君だったためとの説明でしたが、史実はどうだったのでしょうか?
首陽大君(スヤンテグン)は李瑈(イ・ユ:이유)として1417年9月29日にこの世に生まれました。
この時、彼の父で後の朝鮮第4代・世宗(セジョン:세종)は、忠寧大君(チュンニョンテグン:충녕대군)であり、世子(セジャ:세자)ではありませんでした。
けれど、兄であった世子、のちの讓寧大君(ヤンニョンデグン:양녕대군)が素行不良ということで、1418年8月8日に世子となり、その2日後の8月10日に王となりました。
このことからも分かる通り、本来であれば首陽大君は大君ではなく君として、傍系のまま生涯を終えたはずだったのです。
後年、彼は首陽大君(スヤンテグン)という君号が最も有名ですが、晉平大君(チンピョンテグン:진평대군)
、咸平大君(ハムピョンテグン함평대군)、晉陽大君(チニャンテグン:진양대군)と号が変遷しており、1445年になってようやく首陽大君の君号となりました。
前回のコラムでも触れたように、貞熹王后尹氏(チョンヒワンフ ユンシ:정희왕후 윤씨)と婚姻した1428年は最初の君号の晉平大君で呼ばれていました。
上記のように、首陽大君は封じられたとしても君になるはずだった王族なので、もとより王宮で過ごすはずはありませんでした。
生まれた直後にドタバタと父が大君から世子になり、すぐに王になったこともあり、王宮ではなく私邸で過ごしました。
また、1419年9月26日には第2代・定宗(チョンジョン:정종)が升遐(スンハ:승하)しており、入宮は先延ばしとなったと考えられます。
その後、5歳のころ入宮しました。
一方の弟・安平大君(アンピョンテグン:안평대군)は、生まれたときからすでに王の子でした。
その対比をドラマではデフォルメして描いているようです。
1428年、12歳のときには婚姻しているため、おそらくはこのときから再び私邸暮らしだったものと思われます。
このように時系列を追っていくと、たしかに親の愛情に飢えていた少年時代だったようです。
文責:韓国ドラマあらすじ団
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